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秋田地方裁判所 平成5年(ワ)90号 判決 1996年3月22日

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告は、原告内田ミヱに対し金一〇〇〇万円、原告内田健夫、原告木元有美子及び原告内藤徹に対しそれぞれ金三〇〇万円及び右各金員について平成三年一〇月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、亡内田義隆(以下「亡義隆」という。)が平成三年三月まで、被告の運営する秋田県成人病医療センター(以下「被告病院」という。)に通院して診療を受けたが、同年一〇月四日、直接死因、癌の肺転移、肺炎で死亡したことから、被告病院に、亡義隆の癌の発見が遅れたこと、適切な治療を怠ったこと、亡義隆あるいは同人の家族である原告らに対して病状の説明を怠ったことについて、診療契約上の債務不履行ないしは不法行為があり、原告らは精神的苦痛を受けたとして、原告らが被告に対し損害賠償を請求している事案である。

一  前提となる事実

1 亡義隆が、大正二年一〇月五日生まれの男性であり、死亡時の年齢は七七歳であった。

原告内田ミヱは亡義隆の妻であり、原告内田健夫、原告木元有美子及び原告内藤徹はいずれも亡義隆の子である。

2 被告は、主に成人病に関する諸疾患の調査研究並びに診断・治療を行うことを目的とする財団法人であり、被告病院を開設、運営している。(以上当事者間に争いがない。)

3 亡義隆は、昭和六〇年一一月ころから、虚血性心臓病などにより、被告病院の外来で診療を受けていた。

被告病院は、平成二年一〇月二六日、亡義隆の胸部X線撮影をし、同X写真上、両肺に陰影が見られることを発見した。

亡義隆は、同日から平成三年三月まで、数回被告病院に通院していたが、被告病院の担当医師は、亡義隆ないしは原告らに対し、肺に腫瘍があることについて説明をしなかった。

4 亡義隆は、平成三年三月、秋田大学医学部附属病院で診察を受け、多発性肺転移と診断された。同病院の担当医師である塩谷隆信は、同月一九日ころ、原告内田健夫らを同病院に呼び、亡義隆が末期癌である旨の説明をした。なお、亡義隆本人には、末期癌である旨の説明はされていない。

5 亡義隆は、秋田大学医学部附属病院の病室が満室であったことから、平成三年三月二三日、秋田赤十字病院に入院した。同病院は、亡義隆の病状について、左腎癌(末期)、胸骨・肝・肺転移、膵脾直接浸潤と診断し、亡義隆本人に、胸骨の骨髄炎で、細菌の侵入経路である左腎は化膿で腫大している旨説明した。

その後、亡義隆は、入退院を繰り返し、同年一〇月四日に死亡した。死亡診断書には、直接死因が「肺転移、肺炎」、その原因が「左腎臓癌、骨転移」と記載された。

二  主な争点

1 被告病院は、亡義隆の診療経過に照らし、また、適切な検査を実施することにより、平成二年一一月より以前に癌を発見すべきであったといえるか。

2 被告病院の癌発見後の治療は、適切であったか。

3 被告病院が、癌発見後、亡義隆及び原告らに対し病状を説明しなかったことが、被告の債務不履行ないしは不法行為となるか。

三  当事者の主張

1 原告らの主張

(一) 争点1及び争点2

亡義隆は、平成二年夏ころから、胸痛を訴えるようになり、被告病院受診の際にも胸痛を訴えたが、担当医師は「なんでもない」と言い、湿布薬、飲み薬を渡すのみであった。亡義隆は、平成三年になると、激痛を訴える回数が増え、医療センター担当医師であった三浦一樹医師(以下「三浦医師」という。)に異常を訴えたが、その度に異常なしとの回答であった。

被告病院は、亡義隆の訴えから、早く検査を行い癌を発見すべきであった。

また、被告病院は、亡義隆の胸痛の訴えになんでもないと回答するのみで適切な治療をしていない。

被告病院には、癌発見の義務違反、適切治療の義務違反があり、債務不履行責任ないしは不法行為責任を負う。

(二) 争点3

患者が、病院ないし医師と診療契約を締結するのは、自己の病状や治療方針について正確な知識を与えられた上で、医療行為を適切に行うことを、医師に求めてのことであって、医師の判断にすべてを委ねることを合意しているわけではない。患者の自己決定権が確保されるためにも、患者自身に情報が正確に知らされることが必要である。これは、末期癌の患者であっても同様である。むしろ、末期癌の患者であるからこそ、余命を充実して送るために、十分な情報と知識が与えられるべきである。また、このことは、患者がいかなる社会生活を営んでいるかとは無関係である。いかなる社会的地位にある患者であっても、余命をどのように送るかは価値的には同等である。人間は誰でも予め死を予期して対処する必要がある。これを医師の一存で奪うことは許されない。

予め死を予期して対処することは、患者自身だけではなく、その家族も同様である。家族は、患者の生存と安逸のためにできるだけの協力をすることを望んでいるのであるから、家族に対しても適切な知識と情報が与えられる必要がある。とりわけ、患者自身が自己の病状等への理解が不十分である場合や、患者自身への告知ができない場合には、患者の家族に対し適切な知識と情報が与えられ、その家族の協力を得て、治療や措置を採ることが不可欠である。

亡義隆を診断した秋田大学医学部附属病院では、末期癌との診断後直ちに家族に病状の説明がなされている。家族への説明は一般的になされているものである。

被告病院の医師は、亡義隆が末期癌であると分かった平成二年一一月から平成三年三月までの間、亡義隆ないし原告ら家族に対し、亡義隆の病状を説明する義務があったにもかかわらず、漫然とこれを怠った点に、債務不履行ないしは過失があり、その結果、亡義隆及び原告らは、亡義隆の救命ないしは延命の機会を失った。また、亡義隆及び原告らは、亡義隆の病状を説明されなかったために、亡義隆の余命について適切な生活配慮などができず、予め死を予期して対処する生活を送ることができなかったため、甚大な精神的な損害をこうむった。被告病院医師の説明義務違反と亡義隆の死亡との間に因果関係がないとしても、その説明義務違反による精神的損害をこうむった。

(三) 損害

原告らは、(一)及び(二)記載の被告病院の債務不履行ないしは不法行為によって精神的な苦痛を受け、その慰謝料は、少なくとも原告内田ミヱにあっては金一〇〇〇万円、原告内田健夫、原告木元有美子及び原告内藤徹にあってはそれぞれ金三〇〇万円を下らない。

2 被告主張

(一) 争点1

被告病院は、平成元年四月に亡義隆の胸部をX線撮影しているが、その際には、異常は認められなかった。

亡義隆が胸痛を訴えたのは、平成二年一二月二九日の受診の際であり、平成二年一一月より以前に、亡義隆が癌であると疑うべき事情はなかった。

また、亡義隆の癌の原発巣は腎臓であったが、腎癌の発生頻度は他の悪性腫瘍にくらべ極めて少なくかつ無症状であることが多く、その半分は血尿などの症状から発見され、残りは骨や肺などに転移してはじめて発見されるといわれ、早期発見は困難な癌である。

(二) 争点2

被告病院は、平成二年一〇月二六日、亡義隆の心臓病に関する治療効果確認のためにX線撮影をした際に、亡義隆の肺に腫瘍があることを発見した。

三浦医師は、同年一一月、X線写真、CT検査の結果から、全肺野にわたり、多発性腫瘍性結節陰影、縦隔リンパ節(両肺の間にある)多発性腫大がみられることから、多発性転移性肺腫瘍と診断し、その進行度について、既に胸水の貯留が認められることから、末期癌で、予後は一年よりも短いと判定した。

かような癌の態様、患者の七七歳という高齢を考慮すると手術は不可能であり、化学療法も全身症状を悪化させ、与える苦痛の大きいこと(吐気、食欲減退、脱毛、赤血球や白血球減少などの骨髄障害)に比較して、効果は期待できないとことから、適宜ペイン・クリニックを施す以外治療の選択肢はなかった。右方法は、高齢者の多発性転移性肺癌ではよく採られる方法である。

(三) 争点3

亡義隆は、いつも一人で受診しており、家族から、亡義隆の病状に関する問い合わせもなかった。

三浦医師は、平成三年一月一九日、亡義隆の診療の歳、家族に亡義隆の病状について説明した方が良いと考え、かつ本人が病状の真相を知ってはまずいとの配慮から、本人が病院にいる間にカルテ記載電話番号に診察室の隣から電話をしたが、連絡がつかなかった。三浦医師は次の機会に連絡をしたいと考え、カルテに「患者の家族に何らかの説明が必要である」旨の記載をした。もっとも、亡義隆の病状はもはや治療による改善の余地はない末期であったから、家族に対する説明は、医療の選択や予後の問題とは無関係である。癌告知がなされなかったために治療上の不利益が生じたとは認められない。

亡義隆の場合、癌の告知は、寿命がほぼつきていることを明確にし、死を覚悟させるだけの意味しか持たない。老妻と二人暮らしの七七歳の患者は、あらかじめ死を予期して対処しなければならない社会的な立場を有しない。末期癌であることを告知することは、人間が生きていく上で、欠かすことができない希望を奪い、残された人生を一瞬にして暗く冷たい状態にしていまう。したがって、癌の告知を行うかは、病状、患者、家族の状況、治療についての協力の度合い、来院しなくなった事情などを総合して判断されるべきで、医師の裁量に委ねられており、本件において、被告病院の医師らに裁量の逸脱はない。

(四) 被告には、争点1ないし3、いずれの点についても債務不履行ないし過失はない。

第三  判断

一  被告病院における亡義隆の診療経過について

《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

亡義隆は、昭和六〇年一一月から被告病院循環器科外来に、一、二週間に一度の割合で通院し、虚血性心疾患、期外収縮、脳動脈硬化症等の治療を受けていた。

被告病院は、平成元年四月一九日、亡義隆の胸部X線の撮影をした。同X線写真には、特に病的な所見は認められなかった。

被告病院は、平成二年二月一六日、亡義隆に体重の減少が認められたことから、消化器系について腫瘍マーカーなどの検査が行われたが、顕著な異常所見は認められなかった。

亡義隆は、平成二年六月八日、受診した際、一か月前から左乳頭付近の痛みが出現した旨訴えたが、他覚的所見は認められなかった。

被告病院は、同年一〇月二六日、心臓病の治療効果を確認するために、亡義隆の胸部X線の撮影をした。同X線写真には、コイン様陰影が見られたことから、心臓病の担当をしていた医師は、同年一一月九日、当時、秋田大学医学部第二内科(循環器系、呼吸器系)講師で、土曜日に被告病院の外来の診察を担当していた三浦医師に右X線写真等の解読を依頼した。三浦医師は、亡義隆のX線写真、CT写真から、右肺野に小結節、左下肺野にそれよりも小さな結節が数個認められ、横隔膜角が鈍化し、胸水の貯留(腫瘍性の滲出腋が溜まるものと理解されている状態)が考えられたことから、原発巣が別臓器にあるか、肺内転移であるかは不明であったが、多発性転移巣あるいは転移性の病変と診断した。

三浦医師は、同年一一月一七日、亡義隆を診察し、腫瘍マーカーに関する検査結果等から、偏平上皮癌あるいは重複癌ではないかと推測し、また、いずれにしろ転移性、多発性の腫瘍があること間違いなく、亡義隆に対しては、治癒的な手術は不可能であり、化学療法もあまり有用とは考えられないと診断した。また、同医師は、亡義隆の余命について、長くて一年程度ではないかと考えていた。

三浦医師は、同年一二月八日、亡義隆を診察し、胸部X線の撮影をしたが、腫瘍の大きさには変化はなかった。

亡義隆は、同年一二月二九日、受診の際、三浦医師に前胸部に痛みがあると訴え、三浦医師は、前脛骨部に浮腫があるのを認めた。同医師は、同日のカルテに、末期癌であろうと記載し、内服鎮痛剤スルガムを投薬した。

三浦医師は、診察の際、亡義隆に対し、入院して内視鏡検査等を受けるように勧めたが、亡義隆は、病身の原告内田ミヱと二人暮らしであるから、入院はできないと拒否した。また、同医師は、受診の際、家族を同行するように依頼したが、亡義隆は一人で通院してきていた。同医師も、原告内田ミヱと二人暮らしであるという以上に家族関係に関する事情は聴取していなかった。

三浦医師は、平成三年一月一九日、亡義隆を診察したが、前回診察時と変化のない状態であり、内服鎮痛剤スルガムを投薬した。また、亡義隆が、肺の病気はどうかとの質問をしたのに対し、三浦医師は、本人に末期癌であることを告知するのは適当ではないと考え、前からある胸部の病気が進行している旨答えたが、亡義隆が、更に、癌ですかと質問したのに対し、癌かどうかを調べるため検査が必要である旨回答した。三浦医師は、亡義隆が末期癌で有効な治療手段がないことから、今後はなるべく家族と一緒に生活できる期間が長くなる方向で医療を進めたらどうかということを亡義隆の妻に説明した方が良いと考え、亡義隆に知られるのは適当ではないとの配慮から、亡義隆が被告病院にいるのを確認し、診察室の裏にある電話から、カルテ記載の亡義隆自宅の電話番号に電話を架けたがつながらなかった。三浦医師は、その後、被告病院における診療の担当ができなくなりそうであったことから、カルテに、転移病変につき亡義隆の家族に何等かの説明が必要と記載した。三浦医師は、同日以降、亡義隆を診察していない。

亡義隆は、同年二月九日、被告病院を受診した。亡義隆の前胸部の痛みは治まっていた。被告病院医師は、内服鎮痛剤スルガムを投薬した。

亡義隆は、同年三月二日、被告病院を受診し、胸の痛みを訴えた。被告病院医師は、鎮痛湿布薬ゼラップを処方した。

三浦医師の後任の医師からも、亡義隆には勿論、原告ら家族に対しても、亡義隆が末期癌あるいは末期的疾患である旨の説明はなされなかった。

亡義隆は、同年三月二日以降、被告病院を受診していない。

二  争点1について

亡義隆の前記診療経過を検討するに、平成元年四月一九日撮影の亡義隆の胸部X線写真などの平成二年一〇月二六日より以前の検査結果では、癌を疑うべき病的な所見は認められない。また、自覚症状では、亡義隆が平成二年六月八日に受診した際に左乳頭付近の痛みを訴えたほかは特に注意すべきものはない上、一般に肺癌に伴う自覚症状は咳嗽、血痰が多く、慢性疾患で長期通院中の患者が単純な筋肉痛から胸痛を訴えることも少なくないこと(鑑定)、亡義隆は心疾患で通院加療中で、不整脈もあったことから、亡義隆の訴えは心臓由来の可能性があること(鑑定)、六月以降、右の痛みが特に悪化するような状況変化はないことからすれば、右自覚症状から癌を疑うことは困難であったと認められる。

右のような状況であり、更に、亡義隆の原発巣である腎臓癌は、その比較的特有な症状とされる血尿、腎部痛及び腹部腫瘍の症状が一つでも発現する頻度はさほど高くなく、長期にわたって無症状に経過する例が多く、症状発現時には腫瘍がかなり進行増大している場合が多いことを考えれば、被告病院が、前記診療経過の下において、平成二年一一月より以前に亡義隆が癌であることを発見することは困難であり、かつ、癌発見のための他の検査を実施すべきであったともいえないから、平成二年一一月より以前に癌を発見できなかったことについて、被告病院に、債務不履行責任ないしは不法行為責任は認められない。

三  争点2について

1 平成二年一〇月二六日撮影の亡義隆の胸部X線写真には、右上肺野外側に直径一五ミリ大の結節状陰影が一個、左下肺野に直径一三ミリ大と六ミリ大の結節状陰影が二個見られ、更に、平成元年四月一九日撮影の亡義隆の胸部X線写真では見られなかった左肋骨横隔膜角の鈍化が見られ、胸水が貯留していると考えられる状況にあり、平成二年一一月九日撮影の亡義隆の胸部CT写真にも、X線写真で認められたのと同じ結節状陰影が見られ、かつ縦隔リンパ節に直径〇・八センチメートルの腫張が見られるものであり、亡義隆における右所見は、血行散布型の転移性腫瘍であると診断される。

右各検査結果に、平成三年三月二五日以降の、秋田赤十字病院の検査において、左腎上極に直径一〇センチメートル大の腫瘍が認められ、肺のほかに骨、肝にも転移巣があり、傍大動脈リンパ節の腫大が認められたこと、亡義隆は、平成三年一〇月四日に左腎臓癌の全身播種のため死亡したと認められることを総合して評価すれば、亡義隆の病状は、平成二年一〇月二六日の時点で、既に左腎の癌がリンパ管と血管を介して肺に転移しており、病期[4](癌の進行度は病期分類で[1]ないし[4]で示されるが、病期の番号が大きいほど癌の進行度は高い。)に相当する進行性末期癌であったと認められる。

2 癌に対する治療法としては、通常、手術療法、放射線療法、化学療法、対症療法が採られる。

転移性肺腫瘍について手術療法を行うためには、全身状態が手術に耐えられること、原発腫瘍が根治的に治療されていること、肺以外の部分に遠隔転移が発見されていないこと、肺転移が一側肺に限られていることが必要とされているが、亡義隆の場合には、七七歳と高齢であること、両側肺に転移病変が認められること、原発巣の治療はなされていないことなどから、手術療法は適さなかったと認められる。

放射線治療は、限局性病変に適する治療法であるが、亡義隆は、両側肺に転移病変が認められることから、放射線治療の対象にもならないと認められる。

化学療法は、重篤な副作用(悪心、嘔吐、脱毛、骨髄抑制など)を伴うが、高齢者の場合には特に毒性が強く現れる危険性があること、腎臓癌においては薬物療法の効果が低いことから、亡義隆には化学療法は適さなかったと認められる。

また、進行性末期癌に対する有効な治療方法は現在まだ確認されていない。

右からすれば、平成二年一一月以降における亡義隆に対する治療は、進行性末期癌であることから、救命、延命のための有効な治療方法はなく、疼痛等に対する対症療法を行うしかない状況にあったと認められる。

被告病院においては、原発巣がどこかについては診察が進められていないが、仮に原発巣が腎臓であるとわかっても有効な治療方法がないことには変わりはない。

3 先に認定したように、被告病院は、亡義隆に対し対症療法の措置を採り、亡義隆の前胸部痛を訴えての受診に対して内服鎮痛剤、鎮痛湿布薬を処方しているから、当時の亡義隆の疼痛に対する治療としては相当なものであった。

以上から、平成二年一一月以降の被告病院における亡義隆に対する治療方法の選択及び実施した治療は相当なものであったと認められる。

四  争点3について

1 先に認定したように、被告病院医師は、平成二年一一月には、亡義隆がほぼ進行性末期癌であると理解していたが、亡義隆が被告病院で診療を受けていた平成三年三月までの間、亡義隆には勿論、原告ら家族に対しても、亡義隆が末期癌あるいは末期的疾患(以下「末期癌」という。)であることを説明しなかった。

2 先に認定したように、亡義隆は、平成二年一一月、既に高齢者の進行性末期癌で有効な治療方法がない状態であったから、亡義隆ないしは原告らに末期癌であることの説明がなされなかったからといって、亡義隆の救命ないしは延命に関し治療上の不利益は生じていないと認められる。

3 原告らは、たとえ治療上の選択等の余地がない場合であっても、予め死を予期して余命を充実して送るために、被告病院医師には、亡義隆あるいは原告ら家族に病状を説明すべき義務があったと主張する。

確かに、死期、余命は個人に関する重要な情報であり、その情報が本人ないし家族に伝えられれば、原告ら主張のように、突然に死を迎える場合に比較し、死を予期した上でその余命をより充実して送れる場合もあろう。しかしながら、末期癌であることの告知は、ある意味では死の宣告に等しいものであり、本人に与える精神的衝撃が非常に大きいものであることは容易に想像できることであり、本人に対しては告知すべきでない場合が多いであろうし、また、すべての家族が原告らが主張するように末期癌の告知を望んでいるとは考えられず、最後まで死を予期しない生活を送ることを望む場合もあると考えられる。癌告知を受けた家族が動揺し、本人に癌であることが伝わり、かえって告知後の生活を不良なものにしてしまうおそれもある。また、現在、医療関係者間においても、末期癌の告知に関し、明確な基準が確立されているとは認められない(弁論の全趣旨)。したがって、末期癌の告知を行うべきか、行うとしても、いつ、誰に対して、どの様に行うかについては、一義的な基準を設けることが困難な性質のものであり、結局、患者本人の病状、予測される余命の期間、本人及び家族の人格、生活状況、告知を望んでいるか否か、患者等と医師との信頼関係、告知後の精神的ケア・支援の見込み等の諸要素を検討した上での担当医師の判断に委ねられている医療行為というべきであり、他の医療行為に比較して、担当医師には広範な裁量権が認められているとするのが相当である。

4 本件については、平成二年一一月時点で、亡義隆の余命が一年程度と判断されていたのであるから、そう遠くない時点で、原告ら家族は、亡義隆の病状の進行から、亡義隆が末期的疾患であることを知るであろうと予測されること、三浦医師自身が家族に亡義隆の病状を説明する必要性があると考えていたこと、平成三年三月に秋田大学医学部附属病院の医師から原告内田健夫らに対し癌の告知がなされたが、その後、告知を受けたことによる混乱等はなく、亡義隆に対する治療が行われたこと、原告らは、告知をしなかった被告病院の姿勢に不満を持ったことなどからすれば、結果的にみれば、被告病院受診期間中に少なくとも家族に末期癌の告知をしても問題のなかった事案であり、被告病院における三浦医師から後任の担当医師への引き継ぎが不十分であったこと等から、家族に連絡等を取らなかった点は適切な対応ではなかったといい得るかもしれない。

しかしながら、先に認定したように、亡義隆は、被告病院において外来の患者であった上、受診の際、いつも一人で来ていたこと、亡義隆は妻である原告内田ミヱと高齢者二人暮らしであったこと、原告ら家族から検査結果等について問い合わせもないこと、三浦医師は、亡義隆に対して、胸部の痛みについて癌であるかどうか検査する必要があると説明していたこと、亡義隆が、三浦医師の入院して検査を受けるようにとの勧めを断っていたこと、亡義隆は、前触れなく、平成三年三月二日以降、被告病院に通院しなくなったこと、被告病院受診中の亡義隆の病状は、投薬等外来における診療で対応できる状態であったこと、病院から家族に連絡を取るにしても、本人に分からないように配慮して行う必要もあること、結果的には、原告らは、平成三年三月、他の医師から亡義隆が末期癌であることを知らされたことなどを総合的に考慮すれば、被告病院が、亡義隆が末期癌であることを知っていながら、亡義隆及び原告ら家族に対し末期癌であることを告知しなかったことは、担当医師に認められた裁量権を逸脱するものとまでは認められないから、診療契約上の債務不履行あるいは不法行為には当たらないものと判断する。

第四  結論

以上から、原告らの主張はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 片瀬敏寿 裁判官 坂本宗一 裁判官 唐木浩之)

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